
草戸千軒町遺跡
明王院前の平地・河川敷・中州一帯は、中世の港町だった草戸千軒町の遺跡。調査した範囲は既に掘削されているが、出土品の一部は重要文化財に指定され、広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で見学できる。
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明王院前の平地・河川敷・中州一帯は、中世の港町だった草戸千軒町の遺跡。調査した範囲は既に掘削されているが、出土品の一部は重要文化財に指定され、広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で見学できる。
バスセンターと観光情報発信基地の機能を併せもつ鞆の浦のアクセス・観光の拠点。年間を通じて鞆の浦で開催されるイベントや祭りの情報が入手できるほか、みやげ売り場やフードコーナーもあり、休憩スポットとしても人気。フードコーナーでは、瀬戸内の海の幸をふんだんに使った海鮮丼やしらす丼、鯛ちくわの磯辺揚げ、潮待ちソフトが好評。鞆鉄バス当時の切符売り場をそのまま利用した鞆鉄道ミニ資料館も併設されている。
元和8年(1622)徳川家康の従兄弟・水野勝成[みずのかつなり]が福山十万石の領主となって築城。天守閣は昭和41年(1966)の再建で、博物館として公開している。京都の伏見城から移築されたという伏見櫓(重要文化財)と筋鉄御門[すじがねごもん](重要文化財)は往時の遺構。令和4年(2022)令和の大普請では全国で唯一となる天守北側壁面の鉄板張りが復元された。
文久3年(1863)、公武合体派に京都を追われた尊王攘夷派の三条実美[さんじょうさねとみ]ら7人の公家は長州への途中、鞆の浦に立ち寄った。彼らが滞在したのが旧保命酒屋の中村家。2階建ての本宅と7棟の蔵からなり、いずれも国の重要文化財に指定されている。
江戸末期築の主屋と明治時代の土蔵が一体となった建物は福山市の重要文化財に指定。通り土間を介してその横に店の間、中の間、奥の間と続く、典型的な鞆の商家の形を見ることができる。土・日曜、祝日に公開。
廉塾は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人である菅茶山[かんちゃざん]が、安永4年(1775)に開塾。寛政8年(1796)に福山藩の郷校となり廉塾となった。歴史家であり漢詩人の頼山陽が塾頭をしていたこともあり、多くの門人が学んだという。当時の講堂のほか寮舎や茶山の居宅などが現存しており、塾生が筆や硯を洗ったという水路や菜園、養魚池も残っている。国指定特別史跡。土・日曜、祝日にはボランティアガイドの説明が受けられるのがうれしい。平日の見学は1週間前までに神辺観光協会へ要予約。
江戸時代に山陽道の宿駅となり、参勤交代の諸大名が宿泊する本陣が設けられて宿場町となった神辺宿。宿場内には三日市の尾道屋菅波家(西本陣)と七日市の本荘屋菅波家(東本陣)があったが、この「神辺本陣」は西本陣のこと。筑前黒田家専用の本陣だったといい、延享5年(1748)に建てられた屋敷は黒塗りの土塀に囲まれ、屋敷内には御成の間や二の間などが残り、当時の様子を物語っている。屋敷全体は広島県指定史跡、建物は広島県指定重要文化財となっている。
元和5年(1619)徳川家康の従兄弟・水野勝成[みずのかつなり]が備後十万石の領主となり築城し元和8年(1622)に完成。今の天守閣は昭和41年(1966)に再建され、博物館として公開されている。城内には約300本のソメイヨシノ、ヤマザクラ、サトザクラが咲く。福山城博物館もある。
古刹福禅寺の客殿で、創建は元禄年間(1688~1704)、国の指定史跡。小高い丘の上に建ち、大広間から見る海上の眺めがすばらしい。朝鮮通信使をもてなす迎賓館として利用され、通信使の正使はここからの景色を「日東第一形勝」(対馬から江戸の間で一番美しい景色)と賞賛した。景色を眺めながらのんびり心が洗われる写経を体験してみては。平成29年(2017)には福禅寺対潮楼朝鮮通信使関係史料6点がユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に登録された。
慶応3年(1867)坂本龍馬と海援隊を乗せたいろは丸は、鞆の浦沖で紀州藩の軍艦と衝突した。鞆の浦へ上陸後、船の賠償交渉の際、海援隊士と共に宿泊したとされる商家。龍馬は階段のない2階の隠し部屋に寝泊まりしたと伝えられており、暗殺の危機もかえりみず談判にのぞんだ覚悟がしのばれる。ギャラリーショップも併設。
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