諏訪館跡庭園
5代義景の側室・小少将[こしょうしょう]の館跡で、巨石を配した豪壮な庭園は遺跡の中でもっとも規模が大きい。室町時代に作られ、後世の改変を受けていない庭園(特別名勝)。
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5代義景の側室・小少将[こしょうしょう]の館跡で、巨石を配した豪壮な庭園は遺跡の中でもっとも規模が大きい。室町時代に作られ、後世の改変を受けていない庭園(特別名勝)。
松平春嶽に認められ藩政に参画したが、安政の大獄により26歳の若さで処刑された橋本左内。左内公園には、左内と両親の墓、左内が15歳のときに著した『啓発録』の碑がある。凛と立つ左内の銅像は、昭和38年(1963)、市民の寄付により建立されたもの。10月7日の命日には、左内公園で墓前祭が行われ、多くの市民が参列する。
朝倉館跡を見下ろす山腹にある。4つある特別名勝朝倉氏庭園の中で最古のものと推測され、巨大な山石をふんだんに使った荒々しい石組が残る。室町時代に作られ、後世の改変を受けていない庭園(特別名勝)。
5代朝倉義景が住んだ館跡。6400平方mにも及ぶ敷地には一面に礎石が広がり、16棟の建物があったことがわかる。入口の唐門は、義景の菩提を弔うため、慶長3年(1598)に建立された松雲院の寺門。現在の門は江戸中期に建てられたもの。
江戸中期に建てられたこの門は、朝倉館跡の入口に位置している。義景の菩提を弔うために建立されたと伝えられる松雲院の寺門で、外側には朝倉家の家紋が刻まれている。
約270年間、17代にわたり、越前松平家の繁栄の舞台となった福井城。慶長11年(1606)、初代福井藩主で徳川家康の次男・結城[ゆうき]秀康[ひでやす]によって築城された。当時は高さ約37m、4層5重もの雄大な天守閣と三重の堀をもっていたといわれる。現在残る遺構は堀の一部と石垣のみ。天守台下には福井の地名の由来にもなったという説もある井戸跡「福の井」もある。藩主専用の出入口であったとされている山里口御門が復元され、当時の様子を窺い知ることができる。令和元年(2019)5月には、日本遺産に認定された。
朝倉時代最大の寺院跡。建物は現存しないが、ここでは旧参道沿いの石仏群を見ておきたい。笏谷石[しゃくだにいし]に彫られた阿弥陀如来などの40体近い石仏は、朝倉氏が繁栄していた1520~70年代のものが中心。高さ1.5~2mと大きく、表情豊かなものも見受けられる。この付近は石仏の里とよばれ、西山光照寺跡だけで1879点の石仏や石塔が発見されている。
北庄城は、織田家一の武将・柴田勝家が築いた城で、9層の見事な天守閣を誇っていたが、天正11年(1583)、羽柴秀吉の軍に攻められ落城。勝家は自ら城に火を放ち、妻・お市の方とともに場内で自刃した。わずか8年余りで消えたため幻の名城ともいわれている。北の庄城址・柴田公園は北庄城の遺構の上にあり、勝家やお市の方、茶々・初・江の三姉妹の像のほか、北庄城に関する遺物や史料を展示する北の庄城址資料館が立つ。隣接する柴田神社には柴田勝家とお市の方を合祀。北の庄城址は令和元年(2019)に日本遺産に認定された。
朝倉氏の城下町として栄華を極めていた一乗谷は、天正元年(1573)織田信長の攻撃にあい滅亡。昭和42年(1967)から館跡や武家屋敷などが本格的に発掘され、現在278万平方mの範囲が特別史跡に指定されている。遺跡内の4つの庭園は国の特別名勝。一般的な見学コースは、復原町並~朝倉館跡~湯殿跡庭園~中の御殿跡~諏訪館跡庭園。所要1時間。
市の南西部、兎越山[おさごえやま]の麓にある緑に囲まれた古民家園。3700平方mの敷地には、江戸時代に建てられた古民家等6棟のほか、土蔵・灰小屋・外便所などを移築・復原。市指定文化財となっている。3棟の民家は越前中部や大野盆地に広く分布していた妻入りで、土間と台所(居間)を十文字の太い梁で一つの空間とする越前地方特有の型だ。家の中には家具や生活用品が置かれ、当時の人々の暮らしぶりが見てとれる。
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