与謝野晶子の碑
明治時代を代表する歌人・与謝野晶子は明治44年(1911)に、与謝野鉄寛、佐藤春夫、水上滝太郎らとともに東山温泉を訪れ、歌作などを楽しんだ。竹久夢二の碑の対岸、新瀧橋を渡った「くつろぎ宿 新滝」の敷地内には、「湯の川の第一橋をわがこゆる 秋の夕べのひがしやまかな」の歌碑が建つ。同旅館のロビーには、竹久夢二の絵などとともに掛け軸が展示されている。ロビー内の展示品は宿泊客以外でも見学することができるが、ひと言声を掛けたい。
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明治時代を代表する歌人・与謝野晶子は明治44年(1911)に、与謝野鉄寛、佐藤春夫、水上滝太郎らとともに東山温泉を訪れ、歌作などを楽しんだ。竹久夢二の碑の対岸、新瀧橋を渡った「くつろぎ宿 新滝」の敷地内には、「湯の川の第一橋をわがこゆる 秋の夕べのひがしやまかな」の歌碑が建つ。同旅館のロビーには、竹久夢二の絵などとともに掛け軸が展示されている。ロビー内の展示品は宿泊客以外でも見学することができるが、ひと言声を掛けたい。
京都から源義経の奥州行の後を追い、この地で力つきて難波池に身を投げたという皆鶴姫の墓があり、悲恋の物語を伝える由来書きが立つ。この地を参詣すると、良縁が授かるといわれている。
戊辰戦争の際に、会津藩の少年たちで編成された白虎隊。その白虎士中二番隊が戸の口原合戦場から退却し、自刃した地がここ。白虎隊十九士の墓のすぐ下にあり、白虎隊の少年が鶴ヶ城を望む姿を再現した石像が立つ。ここから南西の方向に目をやると、3kmほど先に鶴ヶ城が望め、当時の彼らの心情を考えると感慨深い。
飯盛山の石段を上った左手に、19基の小さな墓が一列に並んでいる。戊辰戦争の際に、会津藩の少年たちで編成された白虎隊の白虎士中二番隊。戸の口原合戦場から退却してこの地に辿り着き、自刃した少年たちの墓碑だ。自刃した少年たちのうちの1人、飯沼貞吉は奇跡的に助かり、後にこの悲劇が伝わった。墓から鶴ヶ城方面へ下りたところに自刃の地がある。春と秋の年2回行われる墓前祭では、白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納される。
江戸中期の築庭で、歴代藩主の保養所として利用されたもの。「御薬園」の名は、今では会津の特産になっている薬用人参をはじめ、薬草を栽培していたことから付けられた。園内には300種類の薬用植物が栽培される薬用植物園、茅葺き数寄屋造りの御茶屋御殿、心字の池などがある。
白虎隊19士の墓から少し下ったさざえ堂の境内に隣接したところにある。創建は寛文年間(1661~1672)で、内部には白虎隊19士の霊像が安置されている。
江戸時代後期に建てられた土蔵造りの店舗で会津漆器を販売する老舗。会津若松市歴史的景観指定建造物にもなっている店舗の建物は、江戸末期の戊辰戦争時には官軍の屯所として使われた由緒ある建物。レンガ造りのうだつ(防火壁)を持つ重厚な土蔵商店建築で、なまこ漆喰と上部の黒漆喰の店構えは実に立派だ。戊辰戦争時の傷跡が柱に残る店内には、江戸後期によく使われていた図柄の會津繪や鉄錆繪が用いられた復元漆器をはじめ、箸や椀物、重箱など伝統的な会津塗の漆器、オリジナルデザインの漆器商品が多数揃い、見ているだけでも楽しくなる。
会津武家屋敷から東山温泉へ向かう玄関口にあり、会津藩主松平家9代のうち2~9代が葬られている。山の斜面に石段、石畳がつづき、全国的にも珍しい神式の墓石が立ち、国の史跡に指定されている。出掛ける際は歩きなれた靴が望ましい。
会津の歴史・文化の情報発信と伝承を使命とする総合文化施設。約7000坪の敷地に会津藩家老の屋敷、藩米精米所、陣屋、茶室、歴史資料館が建ち並ぶ歴史散策ゾーンを中心に、食事処や特産品店舗も揃っている。
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