 
													義仲寺
源義経の軍勢に敗れ、この地で討死にした木曽義仲[きそよしなか]を弔うために、義仲の側室だった巴御前[ともえごぜん]が建てた草庵が始まりという。松尾芭蕉がたびたび滞在したことでも知られ、芭蕉と義仲の墓が並んで立つ。境内(史跡)には芭蕉の句碑もある。
- 「京阪膳所駅」から徒歩7分/「膳所駅」から徒歩7分
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													源義経の軍勢に敗れ、この地で討死にした木曽義仲[きそよしなか]を弔うために、義仲の側室だった巴御前[ともえごぜん]が建てた草庵が始まりという。松尾芭蕉がたびたび滞在したことでも知られ、芭蕉と義仲の墓が並んで立つ。境内(史跡)には芭蕉の句碑もある。
 
													交通安全、厄祓いのご神徳があり、1250年近くの歴史をもつ。境内には神木のウラジロガシや、延宝8年(1680)の銘がある追分道標が立つ。毎年2月3日節分厄除け大祭(草津市で最も参拝の多い大祭)があり、御神酒・甘酒の無料接待、15時・17時・19時には福餅、福銭、福豆まき1万個以上が振る舞われ、お楽しみ宝みくじ(200円)抽選会も行われる。
 
													佐々木京極道誉による開基と伝えられている曹洞宗の禅刹。境内には、江戸時代初期に造られ、国の名勝にも指定されている築山林泉式の枯山水庭園がある。白砂の代わりに杉苔の緑で水の流れを表現しており、優しく柔らかい印象を与えている。なかでも雨上がりが格別に美しい。四季折々の美しさはあるが、とりわけ秋の紅葉時は多くの観光客が訪れる。
 
													文化8年(1811)、彦根藩第11代藩主・井伊直中が建立した寺。羅漢堂に並ぶ五百羅漢は京都の名工駒井朝運[こまいちょううん]作で、会いたい人の面影が必ず見つかるといわれる。
 
													遠州井伊谷から移された井伊家の菩提寺。白砂の上に48の石を配置した枯山水の「ふだらくの庭」をはじめとした名庭で名高い。
 
													赤門と呼ばれる、朱塗りの山門で有名な寺。石田三成の居城・佐和山城の大手門を利用したものと伝わる。本尊阿弥陀如来は淀殿の念持仏で、大坂城より持ち出されたといわれる。書院の地蔵尊と千体仏は石田三成の念持仏とされ、紅白の砂利を火と水にみなした「彼岸白道の庭」がある。本堂には彦根藩の徳川家康の位牌を安置する。江戸時代は朝鮮通信使の宿館でもあった。
 
													真宗大谷派本願寺別院大通寺は、「ごぼうさん」の名で親しまれている。桃山建築の本堂(重要文化財)と大広間(重要文化財)、伊吹山を借景にした枯山水庭園の含山軒[がんざんけん]庭園(名勝)、狩野山楽・山雪を代表として狩野派の画家が描いた障壁画などみどころが多い。
 
													憧れの異性との出会いを成就させる、縁結びの神様として女性を中心に信仰を集めている。道祖神をかたどった愛の土鈴は良縁だけでなく、カップルの永遠の愛を呼び込むとか。交通安全の神としても知られている。
 
													西本願寺南にある真宗興正派の本山。文明年間(1469~1487)、佛光寺の14世経豪が本願寺8世の蓮如に帰依し、佛光寺を弟に譲り、名を蓮教と改めて山科に一宇を建てたのが起こり。佛光寺の旧称から興正寺(興隆正法寺)と称した。その後、石山本願寺とともに寺地を移転し、天正19年(1591)に現在地に移った。建立は江戸時代(1600年頃)で、明治35年(1902)に焼失、明治45年(1912)再建。
 
													天台宗の門跡寺院であり、本尊の毘沙門天は京の七福神の一つに数えられる。創建は大宝3年(703)。かつては上京区出雲路にあったが、応仁の乱で廃絶。公海僧正が寛文5年(1665)にこの地に復興し、後西天皇の皇子が入寺して門跡寺院となった。円山応挙作の鯉の絵や、狩野益信作の宸殿の障壁画など見るべきものが多い。また枝垂桜、紅葉も美しい。
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