
泉岳寺
曹洞宗の寺院で四十七士の墓所があることで有名。本堂には大石内蔵助の守り本尊も納められている。平成13年(2001)には討ち入り300年にちなみ、義士の遺品などが納められた赤穂義士記念館が立てられた。また春と冬の年二回、義士祭が行われており、春の義士祭では寺宝展も開催されている。
- 「泉岳寺駅」から徒歩6分/「高輪ゲートウェイ駅」から徒歩8分
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曹洞宗の寺院で四十七士の墓所があることで有名。本堂には大石内蔵助の守り本尊も納められている。平成13年(2001)には討ち入り300年にちなみ、義士の遺品などが納められた赤穂義士記念館が立てられた。また春と冬の年二回、義士祭が行われており、春の義士祭では寺宝展も開催されている。
「品川」の名前の由来となった寺。境内に安置された地蔵菩薩は江戸六地蔵のひとつ。多くの参拝者が訪れる。境内にある梵鐘は行方不明になっていたが、スイス・ジュネーブで見つかり、昭和5年(1930)5月に返還。その縁で現在品川区とジュネーブ市は、友好憲章を結んでいる。
明治3年(1870)に、政府と県が中心となり、新興都市である横浜の総鎮守として創建された。かつては県の宗社(公的な祭祀を執り行う神社)として定められ、現在でも、市民の心の拠り所として、初宮詣・七五三・結婚式など人生儀礼の晴れ舞台として、賑わいの絶える事はない。令和2年(2020)の創建150年を記念し、伊勢神宮より社殿が本殿として移築された。
千葉県にある大本山成田山の別院で、寺号を延命院という。願い事が叶うと噂に高い徳川家の秘蔵仏、不動明王を祀っている。高台にある境内からは、野毛の町やMM地区を一望。年間を通じ、厄除・方難・家内安全・商売繁盛などを祈願する人々が訪れる。
弘仁元年(810)に弘法大師が日本武尊の伝説の残るこの地を訪れ、祠を建てたのが開創とされる。文和元年(1352)に日蓮宗に改宗。境内のすぐそばには神奈川の名木百選のビャクシンがそびえる。旧領主・間宮家の菩提寺であり、間宮信繁は梅の植樹を推奨し、のちに杉田梅林として知られるようになった。その数は3万株以上になり、佐藤一斎『杉田村観梅記』や清水浜臣『杉田日記』で紹介され、江戸にも知られた梅の名所として多くの観梅客や文人墨客が訪れた。初代歌川広重は「武州杉田の梅林」にて当時の観梅の様子を描いており、明治には英照皇太后・昭憲皇太后が観梅に訪れ、現在でもその名残が見られる。
真言宗高野山派の寺。貞応元年(1222)に北条政子[ほうじょうまさこ]の発願により照清法師によって創建されたと伝えられる。女人と子供の守護仏となるよう、自刻の尼将軍坐像を御影堂に安置し、「一切の災厄を免れ、願望成就し、利益限りなし」と参詣者に説き「厄除けの尼将軍」ともいわれた。境内には尼将軍化粧の井戸と伝えられる井戸が残っている。
明治元年(1868)創建、「鬼子母神さま」として知られる日蓮宗の寺。この寺の守護神・鬼子母神は、8代将軍徳川吉宗のころ大奥に祭られていた。そのため葵の紋が寺紋となっている。本堂には鬼子母神立像が安置。毎月8のつく日に縁日があり、子供の虫封じや夜泣き止めの祈祷をはじめ、安産祈願・厄除けなどの祈祷も行っている。
寛徳元年(1044)に本堂が再興されたことや、境内から天平瓦が発掘されたことから平安時代、またはそれ以前の創建と推定されている。地元で「観音さま」と呼ばれ、本堂に安置されている木造十一面観音は、本堂再興と同じ平安中期の作と考えられており、寺には行基[ぎょうき]の作と伝わっている。本堂正面の「感応」の扁額は空海[くうかい]の書、内部の「観世音」の額は小野道風[おののみちかぜ]の書といわれている。
古くから、海上交通の神様として崇拝されてきた神社。その昔、平潟湾の中心に急流の瀬戸があり、海神が祭られていた。その海神を神体として創建したといわれている。治承4年(1180)には源頼朝が伊豆の三島大社を勧請。その後も足利氏、小田原北条氏、徳川家から庇護された。現在の社殿は寛政12年(1800)の再建。
平潟湾に突き出した小さな神社。源頼朝の妻・北条政子が琵琶湖の竹生島[ちくぶじま]弁財天を勧請したといわれ、江戸時代にはご神体が立像だったことと、政子の出世にあやかって立身出世の神様として信仰を集めた。境内の入口には、この石の前で物を拾うと福を授かるといわれる福石がある。また、横浜金沢七福神の一つで弁財天を祀っている。
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