
蛇窪神社
かつて蛇窪村とよばれた地にあり、心願成就の白蛇様で知られる神社。主神は天照大御神。鎌倉時代に大干ばつに襲われて龍神社に雨乞いし救われたことからこの地に勧請したのが始まり。境内末社には、弁天池の石窟に、荏原七福神の一つである辨財天と、白蛇大神が祀られた白蛇辨財天社と蛇窪龍神社、大鳥居をくぐり境内に入った左手には京都伏見稲荷大社の分霊を勧請した法密稲荷社がある。お守りの「夢巳札」や「龍の御鈴」が人気。
- 「中延駅」から徒歩7分/「西大井駅」から徒歩11分
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かつて蛇窪村とよばれた地にあり、心願成就の白蛇様で知られる神社。主神は天照大御神。鎌倉時代に大干ばつに襲われて龍神社に雨乞いし救われたことからこの地に勧請したのが始まり。境内末社には、弁天池の石窟に、荏原七福神の一つである辨財天と、白蛇大神が祀られた白蛇辨財天社と蛇窪龍神社、大鳥居をくぐり境内に入った左手には京都伏見稲荷大社の分霊を勧請した法密稲荷社がある。お守りの「夢巳札」や「龍の御鈴」が人気。
品川区西大井にある天台宗の寺院で、山号は帰命山、本尊は釈迦如来。上野にあった養玉院と芝高輪にあった如来寺の2寺が合併したことから「養玉院如来寺」、「如来寺」とも呼ばれる。“大井の大仏おおぼとけ”といわれるのは、境内の瑞應殿に安置されている五智如来像。薬師如来、宝勝如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来の5体の仏像が横一列に並んでおり、いずれも像高約3mで木造の仏像としては都内最大級。品川区指定文化財で、その迫力を体感したい。
東海道沿いにある静かな古刹。徳川家康の侍女、お万の方が小石川伝通院白誉[びゃくよ]上人を請じて開山した。「清源院」はお万の方の法号。お万の方を火葬した寺でもあり、その跡もある。本尊は歯吹阿弥陀如来で、7月18日に開帳される。
延久4年(1072)、源頼義、義家父子が誉田別命[ほむだわけのみこと](応神天皇[おうじんてんのう])と富属彦命[とつぎひこのみこと](相模国造二世の孫)を勧請[かんじょう]。本殿は天保11年(1840)、拝殿は昭和9年(1934)に奉献された。山頂には富属彦命の墳堂があり、これを富塚と称し、戸塚の地名が付いたといわれている。
逗子海岸の北西端にある小堂で、徳富蘆花の小説『不如帰[ほととぎす]』の舞台となったところ。もとは浪切不動といわれて漁民の信仰対象だったが、小説がベストセラーになって以来ヒロイン片岡浪子の名前をとって浪子不動とよばれるようになった。すぐ目の前の海上には、不如帰と刻まれた大きな石碑が立つ。文字は蘆花の兄の蘇峰[そほう]が書いた。
大船観音寺の境内にある白い巨大な観音像は、優美な顔立ちが印象的。高さ25.39m、重量1915トン。昭和初期に造り始め、戦争で一時中断したが昭和35年(1960)に完成した。小高い丘の上に立ち、東屋から大船の町並みが一望に見渡せる。観音像の胎内には20分の1の原形像が祭られている。
玉縄北条氏菩提寺。龍寳寺は昭和26年(1951)の火災により建物のほとんどが焼け、残ったのは山門と鐘楼[しょうろう]だけとなるが、昭和35年(1960)に、大岡実博士の設計で本堂が再建された。
源氏山公園内に鎮座し、後醍醐天皇に仕えた日野俊基卿を御祭神として祀る神社。境内社に合鎚稲荷社、又大黒様を祀る縁結び石があり、様々な良い縁を願う人が訪れている。山頂にある広大な境内では春夏秋冬様々な景色が楽しめる。中でも紫陽花がとても見事で、知る人ぞ知る紫陽花の名所となっている。
臨済宗円覚寺派の禅寺で、鎌倉五山の第四位。弘安4年(1281)、北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために妻とその子師時が建立したという。鎌倉時代には七堂伽藍を備え、塔頭も11院ほどあった。現在は関東大震災後に再建された総門や仏殿などが立つ。石段を登って鐘楼を兼ねた山門を入ると、右手に本尊の木造三世仏坐像を安置する仏殿の曇華殿がある。境内には竹林ややぐらなどを巡る散策路が設けられ、禅寺にふさわしい閑寂なたたずまいをみせている。梅や桜、萩など花の寺としても人気。参道入口には鎌倉十井のひとつ、甘露ノ井がある。
永仁元年(1293)、日蓮の孫弟子日像[にちぞう]上人が開山した。本堂の日蓮聖人像は口を少し開けた珍しいもの。境内右手には徳川家光の弟忠長の供養塔が立つ。春は参道の桜並木が美しく、5月はシャガ、6月にはイワタバコなどが咲く。
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