
長崎公園
諏訪神社の境内へと続く、見晴らしのよい小高い丘の上にある公園。巨大なクスノキなどの木立の中に、写真の開祖・上野彦馬[うえのひこま]や印刷術の開祖・本木昌造[もときしょうぞう]ら長崎ゆかりの偉人像が数多く立っている。公園の登り口には、日本最初の缶詰製造地の標柱もある。
- 「諏訪神社駅」から徒歩7分/「新大工町駅」から徒歩9分
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諏訪神社の境内へと続く、見晴らしのよい小高い丘の上にある公園。巨大なクスノキなどの木立の中に、写真の開祖・上野彦馬[うえのひこま]や印刷術の開祖・本木昌造[もときしょうぞう]ら長崎ゆかりの偉人像が数多く立っている。公園の登り口には、日本最初の缶詰製造地の標柱もある。
立命館大学の学祖であり公使、文相、首相を歴任した西園寺公望が、明治3年(1870)頃、フランス語の勉強のため長崎滞在中の仮の住まいとしていた地。滞在は7カ月ほどだった。
寛永11年(1634)、唐僧・黙子如定[もくすにょじょう]によって架設。中島川石橋群の中では唯一の双円アーチ型で、水に映った姿が眼鏡のように見えるためこの名が付いている。眼鏡橋のビューポイントは2つ隣の東新橋。アーチが高いので、眼鏡橋を正面から見下ろす角度で見ることができる。橋の向こうに夕日が沈む景色は一見の価値あり。河畔は中島川公園として整備され、枝垂れ柳が風情を感じさせる。川沿いに遊歩道もあるので、ゆっくりと散歩をしてみよう。夜22時までライトアップを実施。長崎の観光名所として人気が高い。
文久3年(1863)に日本最初の西洋料理の店が開店した地。のちに長崎市馬町へ移転。建物は現在グラバー園へ「旧自由亭」として移設されている。
「亀山社中」とは、慶応元年(1865)、薩摩藩や長崎商人などの援助を受けて土佐の浪人だった坂本龍馬が設立した日本初の貿易商社といわれる結社。メンバーには長岡健吉など幕末の激動期を生きた志士たちが名を連ねている。活動の拠点としていたのは、亀山焼窯元であったという亀山に立つ家。記念館は、その亀山社中跡にある建物を幕末当時の姿により近い形で復元し公開している。館内には、復刻したブーツや紋服、ピストル、『海援隊日史』の複製などが展示されており、龍馬が身を隠したといわれる中二階(隠し部屋)も復元されている。
江戸時代後期に荻野流砲術および西洋砲術の研究をした、町年寄・高島秋帆の邸宅跡(史跡)。文化3年(1806)、秋帆の父が別邸として建てたもので、別名雨声楼[うせいろう]ともよばれていた。国の史跡指定後、原爆に遭って大破。現在は石垣や塀がかつての名残りをとどめている。
亀山社中跡の長崎市亀山社中記念館近く、亀山通りに石碑が立つ。亀山焼窯は文化4年(1807)に、大神甚五平を中心に開窯した。オランダが注文した水瓶を主に焼いていたが、オランダ船来航の減少により白磁染付を製作するようになり、やがて慶応元年(1865)に閉窯。龍馬は自分の名と同じ龍が描かれた亀山焼の茶碗を愛用したといい、この窯跡地に亀山社中を設立した。現在、窯跡の一部が確認されており、石碑脇には案内板が、そばの伊良林平公民館では外壁に展示棚を設けて亀山焼の作品を展示している。
遊女屋「中の筑後屋」にあった庭園が残り、遊女「冨菊」が奉納した手水鉢がある。建物ではカッパ絵で有名な長崎市出身の清水崑の作品を展示。
風頭公園内の龍馬の像の隣にある。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の一節を抜粋した文学碑。長崎に込めた龍馬の期待が伝わってくる。
長崎の街を見渡せる風頭山山頂にあるこの公園は、坂本龍馬の銅像や司馬遼太郎の記念碑が立つことでよく知られており、毎年それぞれのファンが多く訪れている。また、この公園は長崎では「ハタ」とよばれる凧をあげて「けんか凧」を楽しむ場所としても有名。カラフルで大胆なデザインの凧を、空中でお互いにからませて相手の糸を切る戦いは、勇壮で美しい。
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