
原子爆弾落下中心地碑
原爆落下中心地に立つ黒御影石[くろみかげいし]の石柱の碑。この碑の約500m上空で原爆が炸裂、半径2.5kmに及ぶ地域を壊滅させた。そばには爆心地から北東約500mの場所にあって壊滅した浦上天主堂の遺壁の一部が移築されている。
- 「平和公園駅」から徒歩3分/「原爆資料館駅」から徒歩7分
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原爆落下中心地に立つ黒御影石[くろみかげいし]の石柱の碑。この碑の約500m上空で原爆が炸裂、半径2.5kmに及ぶ地域を壊滅させた。そばには爆心地から北東約500mの場所にあって壊滅した浦上天主堂の遺壁の一部が移築されている。
江戸時代後期に荻野流砲術および西洋砲術の研究をした、町年寄・高島秋帆の邸宅跡(史跡)。文化3年(1806)、秋帆の父が別邸として建てたもので、別名雨声楼[うせいろう]ともよばれていた。国の史跡指定後、原爆に遭って大破。現在は石垣や塀がかつての名残りをとどめている。
寛永18年(1641)に平戸より移され、218年間唯一のヨーロッパとの貿易の窓口だったオランダ商館の跡地。現在19世紀初頭の出島を復元する事業が進行中。16棟の復元建物等を見学でき、発掘調査により出土した品々や、当時の生活を再現した空間がみどころ。平成29年(2017)11月に出島表門橋が完成し、江戸時代と同じように、橋を渡って出島に入れるようになった。
豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって捕えられたフランシスコ会の司祭と修道士6人と日本人修道士と信者20人が慶長元年(1597)に処刑された場所。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者たちがこの地を処刑の場に願い出たといわれている。26聖人の殉教以降も多くの人々がこの地で処刑されたという。太平洋戦争後公園化され、昭和25年(1950)には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めている。長崎県指定史跡でもあり、園内には26聖人が処刑されて100年目の昭和37年(1962)に、彫刻家・舟越保武作の等身大の嵌込[はめこみ]ブロンズ像の記念碑「昇天のいのり」とキリシタンに関する資料が豊富な「日本二十六聖人記念館」が建てられた。
長崎新地中華街の四方の入口に立つ朱塗りの門が「牌楼[ぱいろう]」、すなわち中華門。長崎新地中華街商店街組合が、中国福州市から資材を取り寄せ、職人を招いて建てたもので昭和61年(1986)に完成。東・北・南門は高さ・幅とも9m。西門は高さ9m、幅4m。東門の青竜門[せいりゅうもん]、西門の白虎門[びゃっこもん]、南門の朱雀門[すざくもん]、北門の玄武門[げんぶもん]は正確に東西南北を示す位置にあり、それぞれ裏側に龍や朱雀など四方の守護神である中国伝説上の動物が彫られている。
長崎港ターミナルの突端にある高さ2m30cmの巨大な錨は、大正時代以前に製造され、現役時代に港内の係船ブイを固定するために沈んでいた。ここからは、三菱造船所や稲佐山をバックに撮影できるスポットで、パノラマの海の景色が広がり気分爽快。
北村西望[せいぼう]作の平和祈念像がある公園。像の高く掲げた手は原爆の脅威を、水平に伸ばした手は平和を象徴、閉じた目は戦没者の冥福を祈っている。園内には平和の泉があり、世界各国から寄贈された平和を象徴するモニュメントがある。原爆投下時、この地にあった浦上刑務所の壁の一部も残っている。
遊女屋「中の筑後屋」にあった庭園が残り、遊女「冨菊」が奉納した手水鉢がある。建物ではカッパ絵で有名な長崎市出身の清水崑の作品を展示。
旧長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)は、爆心地から約600mのところにあり、原爆による爆風をまともに受けた高さ1.8mの石造りの門柱が前へ9cmずれ、約10度傾いている。
浦上街道沿いにある山王神社の鳥居。元は一の鳥居から四の鳥居まであったが、原爆の爆心地から南東約900mに位置したため、昭和20年(1945)8月9日の原爆で2つが倒壊。ほぼ原型のまま残っていた一の鳥居は後に交通事故で倒壊し、片方の柱だけになった二の鳥居のみが残っている。原爆の強烈な熱線で上部が黒く焼け、爆風によって片方の柱と鳥居上部が破壊された二の鳥居は、残った笠石の半分を一本柱で70年以上も支え続けている。国指定史跡「長崎原爆遺跡」の一つでもある。
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