梅園通り
作家・なかにし礼著『長崎ぶらぶら節』でも紹介された唄で“遊びに行くなら花月か中の茶屋。梅園裏門たたいて…”と登場する。道沿いには明治時代築の貴重な木造建造物が点在し、風情ある石畳が続く。
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作家・なかにし礼著『長崎ぶらぶら節』でも紹介された唄で“遊びに行くなら花月か中の茶屋。梅園裏門たたいて…”と登場する。道沿いには明治時代築の貴重な木造建造物が点在し、風情ある石畳が続く。
風頭公園内の龍馬の像の隣にある。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の一節を抜粋した文学碑。長崎に込めた龍馬の期待が伝わってくる。
原爆の惨禍から立ち上がった市民の復興への意欲と、世界恒久平和の念願を象徴するため、長崎国際文化郡市建設法の一事業により、昭和30年(1955)に長崎国際文化会館として開館。被爆50周年の記念事業として改築を行い、名称を長崎原爆資料館と改め、平成8年(1996)に開館。展示室では被爆資料や再現模型で原爆投下直後の惨状を再現するほか、記録映画が見られるビデオルームもある。所要1時間。
豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって捕えられたフランシスコ会の司祭と修道士6人と日本人修道士と信者20人が慶長元年(1597)に処刑された場所。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者たちがこの地を処刑の場に願い出たといわれている。26聖人の殉教以降も多くの人々がこの地で処刑されたという。太平洋戦争後公園化され、昭和25年(1950)には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めている。長崎県指定史跡でもあり、園内には26聖人が処刑されて100年目の昭和37年(1962)に、彫刻家・舟越保武作の等身大の嵌込[はめこみ]ブロンズ像の記念碑「昇天のいのり」とキリシタンに関する資料が豊富な「日本二十六聖人記念館」が建てられた。
長崎新地中華街の四方の入口に立つ朱塗りの門が「牌楼[ぱいろう]」、すなわち中華門。長崎新地中華街商店街組合が、中国福州市から資材を取り寄せ、職人を招いて建てたもので昭和61年(1986)に完成。東・北・南門は高さ・幅とも9m。西門は高さ9m、幅4m。東門の青竜門[せいりゅうもん]、西門の白虎門[びゃっこもん]、南門の朱雀門[すざくもん]、北門の玄武門[げんぶもん]は正確に東西南北を示す位置にあり、それぞれ裏側に龍や朱雀など四方の守護神である中国伝説上の動物が彫られている。
長崎駅から丘へ向かって5分ほど歩くと見える、高さ18mもの巨大な観音像がある寺。元国宝の本堂が原爆時の被害で焼失し、坂本龍馬と一緒に逗留したと勝海舟の日記にもある寺だ。
元禄2年(1689)、江戸幕府が密貿易を防ぐことなどを目的として、唐人を集め、住まわせた屋敷の跡地。唐館ともよばれた建物群には約2000人が住み、周囲は塀や堀で囲われ外界から隔離されていた。現在、土神堂[どじんどう]、天后堂[てんこうどう]、観音堂、福建[ふっけん]会館が市の文化財や史跡に指定されている。
出島商館長の住居兼事務所であり、日本の賓客が出島を訪れた際の接待の場所として使われ、出島内で最も大きく中心的な建物だった。中でも、最も広い35畳の大広間では、日本側の役人などとの応接や饗応の場として特に重要な役割を担っていた。クリスマスを祝ったとされる「阿蘭陀冬至」の祝宴風景を再現した展示は必見だ。
遊郭の丸山入口に設けられた門前橋。当時はここに川が流れ、多くの男性が丸山へ行こうか戻ろうか、と思案したことからこの名が付いた。昭和30年代に道路拡張のため橋は消滅したが、それを惜しんで橋の欄干を模した建造物が立つ。
慶長13年(1608)、飯盛山洪徳寺の七世であった亀翁良鶴により創建された。当時の長崎はキリシタンが多く、亀翁はここで仏法復興のために奮闘した。境内には歴代長崎奉行やシーボルトの娘楠本イネなど長崎で活躍した著名人の墓が多くあり、また高台からの景観も見事なため、多くの人々が訪れる。
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