
米子城跡
戦国武将・吉川[きっかわ]広家が築城に着手。慶長6年(1601)、関ケ原の戦いの行賞として伯耆国を与えられた中村一忠が完成。山陰随一の名城といわれたが、明治になり建物は取り壊され、現在は石垣や礎石が残る。標高90mの湊山山頂からは中海や米子市街、大山が見晴らせ、360度の絶景として知られている。城跡を含む一帯は湊山公園として整備。桜の園や日本庭園、スポーツ・文化施設などがある。中海沿いの遊歩道からは夕日が美しい。
- 「米子駅」から徒歩19分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
戦国武将・吉川[きっかわ]広家が築城に着手。慶長6年(1601)、関ケ原の戦いの行賞として伯耆国を与えられた中村一忠が完成。山陰随一の名城といわれたが、明治になり建物は取り壊され、現在は石垣や礎石が残る。標高90mの湊山山頂からは中海や米子市街、大山が見晴らせ、360度の絶景として知られている。城跡を含む一帯は湊山公園として整備。桜の園や日本庭園、スポーツ・文化施設などがある。中海沿いの遊歩道からは夕日が美しい。
根雨は松江の殿様が参勤交代に使った出雲街道の宿場町。宿舎である本陣を中心に真っ直ぐな道に沿う水路に流れる清らかな水に心癒される。商家の様々な形の格子窓や漆喰の白壁、軒下の持ち送り板の彫刻は興味深い。格式ある本陣の門や宿の両端に作られた枡形も残っており、行き交う人々で賑やかだった往時を偲ぶことができる。たたら製鉄で財を成した大近藤家や出店近藤家などの商家が立ち並ぶ街並に、昭和前期建築の旧銀行建物や旧公会堂の洋式建物が不思議に溶け込んでいて、まるでタイムスリップしたかのような懐かしさを覚える。
鎌倉時代末期、書院造りに池泉鑑賞の様式を取り入れて作られた、池泉鑑賞蓬莱式庭園。現在は国指定保護文化財に指定されている。池の中には力強さをたたえた亀島と、女性愛を思わす鶴島が配されている。鎌倉時代に作られた全国13庭園のうち鶴亀島の原型をとどめているのはこの庭園を含めて2つだけという。国指定の第1の理由は写実美、芸術美であり、歴史性よりも優先されている。
臥牛山麓から南に延びる通りの両側に、武家屋敷の白い土塀が続く武家屋敷通り。明治維新以後150年以上になる現在も、屋敷町としての面影を色濃くとどめている。この町並みと紺屋川筋の美観地区が、石火矢町ふるさと村に指定されている。
新田や塩田開発で財を成し、幕末には庄屋も兼ねていたほどの豪商だった大橋家。主屋は五本格子の倉敷窓を持つ厨子2階建てで、国の重要文化財。代官所の許可がなければ建てられなかった長屋門を構えていることから格式の高さを感じとれる。
天保年間(1830~43)に建てられた漆喰壁をもつ屋敷。母屋は格式のある書院造。中庭の池や庭石、踏み石などは当時のまま残っており、その中庭に面して資料館がある。
五・一五事件で、「話せばわかる」の言葉を残して海軍青年将校などの凶弾に倒れた犬養毅の生家。主屋・土蔵は、江戸時代中期の大庄屋の姿を伝える貴重な建造物で、国指定重要文化財。
江戸時代中期から後期にかけて、近習役や番頭役などを務めた武士の住宅。松山城下の武家屋敷としては寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りで、市の重要文化財に指定されている。
高梁の美観地区として、ぜひ訪れたいスポット。高梁川に流れ込む伊賀谷川に沿い、桜と柳の美しい並木が続く。この伊賀谷川はもともと備中松山城の外堀だったもの。橋のたもとには石灯籠や恵比寿神社があり、藩校有終館跡や岡山県下最古の高梁基督教会堂といった見どころも川沿いに多数立ち並ぶ。
倉敷美観地区の本町通りに面して立つ鉄筋コンクリート造り2階建ての西洋建築の建物。大原孝四郎が設立した旧倉敷銀行本店の跡地に、大原孫三郎によって建築された第一合同銀行倉敷支店で、大正11年(1922)の完成。設計は倉敷ゆかりの建築家薬師寺主計。ステンドグラスの窓や、前面・側面に柱をもつルネサンス様式の建物は、市の重要文化財となっている。平成28年(2016)まで中国銀行倉敷本町出張所として使用されていたが、現在は外観見学のみ可能。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。