
飫肥城 大手門
明治4年(1871)に取り壊されたが、昭和53年(1978)に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元された、飫肥城のシンボル的建物。木造渡櫓[とろ]、本瓦葺き[ふき]の重厚な造りの江戸時代の櫓門だ。
- 「飫肥駅」から徒歩17分
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明治4年(1871)に取り壊されたが、昭和53年(1978)に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元された、飫肥城のシンボル的建物。木造渡櫓[とろ]、本瓦葺き[ふき]の重厚な造りの江戸時代の櫓門だ。
飫肥城跡の大手門に向かって左手に立つ武家屋敷。明治になって藩主の伊東祐帰[いとうすけより]が知藩事に任ぜられ、城内からここに移り住んだ。屋敷の南にある庭園は、広い空間に庭石や石灯籠、庭木などを配して作庭された名庭だ。
飫肥藩に伝わる半弓で、射場から的まで四間半、弓矢ともに四尺五寸、的が四寸五分で、すべて四半であることから四半的と呼ばれる。戦国時代には武将の酒宴で、江戸時代には武士の子どもたちの間で、明治以後は庶民の間で娯楽として行われてきた。指導員が遊び方を教えてくれるので、初心者でも気軽に楽しめる。的に命中したら記念品がもらえるので、狙いを定めて射ってみて。
豪商だった山本猪平が明治40年(1907)頃に建築。飫肥の商人屋敷を今に伝える貴重な遺構。昭和4年(1929)に増築した以外は、ほぼ建築当初のまま。
各地に残る江戸時代初期の書院造りの御殿を参考にして、昭和54年(1979)に建築された。建物は御座の間、茶室、御寝所、湯殿、台所、御蔵などから構成され、このうち湯殿は、国宝である西本願寺の飛雲閣のものを模したこけら葺きの総桧造りの蒸し風呂となっている。
明治3年(1870)に当時の山林地主山本五兵衛が建てたものを昭和58年(1983)に現在地へ移築復元した。建物には樹齢200年以上の飫肥杉が使われており、当時の商家や商人たちが使用していた道具を展示。
江戸時代、飫肥藩(伊東氏)五万一千石の城下町として栄え、九州の小京都ともよばれる飫肥。武家屋敷と町家からなる城下町に、古い石垣や生垣、門が見られる。観光の中心となるのは、伊東氏14代の居城・飫肥城。当時は本丸・松尾の丸など11の曲輪を配した南九州型の城。戦国時代には島津豊州家と伊東義祐の間で天文10年(1541)から永禄11年(1568)の28年余りに及ぶ争奪戦が展開された。現在の城跡には、元禄6年(1693)に築かれた石垣などがそのまま残っている。昭和53年(1978)には現在の大手門が、樹齢 100年以上の飫肥杉を使って再建された。
串団子1本地元の材料を使い香ばしく焼き上げた。みたらしのみ1本と引換え(食べ歩き券)。厚焼玉子も1切(食べ歩き券1枚)。
飫肥藩初代藩主・伊東祐兵の甲冑や刀剣などが見られる。また飫肥藩ゆかりの鎧兜や姫様の着物、きらびやかな駕籠なども展示。
日本の近代外交の礎を築いた明治の外交宮・小村寿太郎の生涯や偉業をミニシアターなどで紹介。”ようこそ飫肥へ”では飫肥の特色や文化を紹介している。
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