
益田岩船
橿原市の白橿南小学校西側の丘陵地の中腹に、東西に約11m、南北に約8m、高さ約4.7mの大きさの益田岩船がある。「巨大な石碑の台石だった」「占星術のための天体観測台だった」「横口式石槨の建造途中でひびが入ったから放棄された」など様々な推測はあるが、誰が何のために造ったのかは謎のまま。
- 「岡寺駅」から徒歩14分/「飛鳥駅」から徒歩18分
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橿原市の白橿南小学校西側の丘陵地の中腹に、東西に約11m、南北に約8m、高さ約4.7mの大きさの益田岩船がある。「巨大な石碑の台石だった」「占星術のための天体観測台だった」「横口式石槨の建造途中でひびが入ったから放棄された」など様々な推測はあるが、誰が何のために造ったのかは謎のまま。
元高取藩の家老屋敷で、現在は藩主・植村氏の子孫の住宅。道に面する長屋門は、間口39mという長大さ。白漆喰を盛り上げた、格子模様のなまこ壁が重厚感を漂わせる。外部見学のみ可能。
高松塚古墳の南一帯は古代、檜隈[ひのくま]と呼ばれ、朝鮮半島などから渡ってきた渡来人が多数住んでいた地。大和棟の民家が美しい景観をつくる現在の檜前集落の南のはずれに、渡来系氏族東漢[やまとのあや]氏の氏寺だった、この寺跡がある。於美阿志[おみあし]神社境内に金堂や講堂の基壇や礎石が残り、塔跡には平安時代の十三重石塔(重要文化財)が立つ。
明日香村の高松塚に程近い、自然いっぱいのぶどう園。ぶどう狩りが楽しめるほか、大粒の上品な巨峰は、大切な贈り物にも。
天武9年(680)、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願。文武2年(698)にほぼ完成。ここは当初の薬師寺があった場所で、本薬師寺跡と呼ばれる。金堂と東西両塔の基壇や礎石が、田んぼに囲まれて残るだけだが、伽藍配置は平城京薬師寺とまったく同じ。金堂跡の巨大な礎石群が、かつての大寺を想像させる。
橘寺の西約600mの路傍にある大きな花崗岩の石。亀がうずくまったような形をしているため、昔から亀石と呼ばれている。現在は南西を向いているが、西を向くと葛城地域が洪水に沈むという伝説がある。
畝傍山[うねびやま]の麓に位置し、第一代天皇の神武天皇と皇后を祀る。神武天皇が畝傍山東南の橿原宮で即位したという『日本書紀』の記述に基づき、明治23年(1890)に創建。本殿(重要文化財)は京都御所の内侍所[ないしどころ](賢所[かしこどころ])を移築したもので、手前に内拝殿、外拝殿が立つ。神域は約53万平方mにおよび、玉砂利が敷き詰められた内拝殿前の外院斎庭も清々しい。
欽明天皇陵の西側、小さな丘にあるのが天智・天武天皇の祖母、吉備姫王[きびひめのみこ]の墓。その柵内に猿石と呼ばれる石造物が4体並んでいる。いずれも人に似たユーモラスな姿をしており、内3体は背面にも顔がある。江戸時代に欽明天皇陵南側の水田から掘り出され、陵内に置かれたものが移されたという。
聖徳太子の弟の来目[くめ]皇子が建立したといわれるが、飛行中に娘のすねを見て墜落した久米仙人の創建との説話も残る。本尊薬師如来は眼病に霊験あらたかといわれる。本堂には、久米仙人の歯と毛(髪・ひげ)を植えた自作像とされる久米仙人坐像がある。多宝塔(重要文化財)は京都仁和寺[にんなじ]から移築したもので、桃山様式を残す。アジサイ園は6月が見ごろ。
道を挟んで、鬼の俎[まないた]の向かい側にある大きな石造物。その昔、旅人を捕らえては食っていた鬼が用を足した場所との伝説が残る。実際は、7世紀中頃に造られた古墳の石槨[せっかく]で上部が底石からはがれたものといわれる。
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