江戸前期の臨済宗(禅宗)の名僧で、当時生身の釈迦と仰がれた盤珪禅師[ばんけいぜんじ]が郷里の網干に創建。布教活動の拠点とした。建物17棟は姫路市の文化財に指定、兵庫県の文化財に指定されている仏像などを所蔵している。境内には、同時代の著名な女流俳人で盤珪禅師に帰依した田捨女[でんすてじょ]の墓もある。また、毎年4月の第1日曜日と、その前日に行われる献茶会は大茶碗を用いることで知られている。
慶応4年(1868)、網干出身で勤王の志士として蛤御門の変にも参加したといわれている、河野東馬が興した私塾。枢密院出仕の神楽江薫[かぐらえかおる]、衆議院副議長を務めた肥塚龍[こいづかりょう]をはじめ、明治45年(1912)の閉鎖まで多くの優秀な弟子を輩出した。播磨林田藩の藩校教授だった河野鉄兜[こうのてっとう]は東馬の兄。もとは草葺の建物で、現在は鉄板葺の平屋造り。
龍野藩主だった京極家は四国丸亀に移封された後も、網干の興浜や浜田など28カ村を飛領として支配し、陣屋を設けた。京極家の紋瓦がある現在の陣屋門は老朽化した旧陣屋門を参考にして改築されたもので、昔の建物などは明治期に取り壊された。