
聖福寺
延宝5年(1677)に建立された寺で、興福寺・福済寺・崇福寺と共に「長崎四福寺」ともよばれ、福を呼ぶ寺として人気が高い。欄干など、いたる場所に唐寺の風情が色濃く漂い、長崎一大きな梵鐘や鬼瓦を埋め込んだ塀などみどころも多い。鎖国令により15歳で国外追放された、混血児のジャガタラお春の碑があることでも知られている。
- 「桜町(長崎)駅」から徒歩5分/「長崎駅前駅」から徒歩9分
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延宝5年(1677)に建立された寺で、興福寺・福済寺・崇福寺と共に「長崎四福寺」ともよばれ、福を呼ぶ寺として人気が高い。欄干など、いたる場所に唐寺の風情が色濃く漂い、長崎一大きな梵鐘や鬼瓦を埋め込んだ塀などみどころも多い。鎖国令により15歳で国外追放された、混血児のジャガタラお春の碑があることでも知られている。
正保元年(1644)開山の真言宗の寺。海軍伝習所で学ぶため長崎に滞在していた勝海舟と恋に落ち、一男をもうけた後、若くして亡くなった梶クマ(お久)の墓がある。
坂本龍馬を始め多くの志士達が参拝したことから勤皇稲荷(または勤王神社)と呼ばれている。毎年10月14・15日には白装束に狐の面をつけた若者が命綱なしで10m以上の高い竹竿の上で曲芸を行う「竹ん芸」が行われる。
日本二十六聖人記念館と道路を隔てた向かい側に立つ、スペインのガウディ建築風の高さ約16mの2本の尖塔が目印の教会。日本二十六聖人記念館とともに、昭和37年(1962)に造られたもので、ガウディを日本に初めて紹介した今井兼次が設計した日本を代表する現代建築。正式名所は「日本二十六聖人記念聖堂聖 フィリッポ教会」。26聖人の一人、メキシコ人の最初の殉教者に当たるフェリペ・デ・ヘスス(聖フィリッポ)の名前が由来だ。「天の門」を意味するという双塔は、左塔が祈りと賛美の塔で聖母マリアの象徴、右塔が恵みをいただく聖霊の賜物を象徴している。聖堂内はシンプルな造りでステンドグラスからの光が穏やかに差し込んでいる。
元和6年(1620)創建。日本の唐寺では最も古く、長崎三福寺の一つ。2代目住職は眼鏡橋を造った如定[にょじょう]で、黄檗[おうばく]宗開祖・隠元[いんげん]禅師が最初に入山した寺でもある。威風堂々とした寺が立ち並ぶ寺町通りのなかでも、総朱丹塗りの大きな山門が際立つ。鮮やかな色彩の彫刻が施された大雄宝殿[だいおうほうでん](国重要文化財)や唐人屋敷門(国重要文化財)、孔子を祭った中島聖堂などみどころは多い。
学問の神様、菅原道真を祀った神社。本殿を囲む端垣[みずがき]の欄間に刻まれた『職人尽[しょくにんづくし]』の彫刻は、菓子造りや竹細工、鍛冶大工などの職人の姿を30枚にわたり浮き彫りにした貴重なもの。県の有形文化財にも指定されている。正徳3年(1713)、社殿改築の際に奉納された。
西坂公園の右手に見える日蓮宗の寺。以前このあたりはキリシタンの町だった所でこの寺が立つ敷地も、かつてはサン・ジョアン・バウチスタ教会や、日本最初のハンセン病の病院が建てられていた。勝海舟[かつかいしゅう]やシーボルトの妻子お滝とおイネが投宿した寺としても知られる。
安政元年(1854)、当時19歳の福沢諭吉が蘭学の勉強の拠点として1年間、ここに滞在した。珍しい御朱印地様式の山門が残る。旧長崎市内で最初の宗教施設。慶長19年(1614)建立。すべての神社仏閣はキリシタン時代に焼打ちにあい、その跡地に大聖堂が建った。光永寺は禁教令が出て最初に建った。
地元では「お諏訪さま」の愛称で親しまれている長崎の総氏神。大鳥居から続く194段の石段を上れば長崎の街並みが一望できる。広い境内には、カッパのような皿を頭にのせたり、玉に乗ったりなどさまざまな姿をした狛犬が祀られていてユニーク。また国際都市・長崎ならではの英文おみくじも人気がある。
長崎駅から丘へ向かって5分ほど歩くと見える、高さ18mもの巨大な観音像がある寺。元国宝の本堂が原爆時の被害で焼失し、坂本龍馬と一緒に逗留したと勝海舟の日記にもある寺だ。
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