宗安寺
赤門と呼ばれる、朱塗りの山門で有名な寺。石田三成の居城・佐和山城の大手門を利用したものと伝わる。本尊阿弥陀如来は淀殿の念持仏で、大坂城より持ち出されたといわれる。書院の地蔵尊と千体仏は石田三成の念持仏とされ、紅白の砂利を火と水にみなした「彼岸白道の庭」がある。本堂には彦根藩の徳川家康の位牌を安置する。江戸時代は朝鮮通信使の宿館でもあった。
- 「彦根駅」から徒歩20分/「ひこね芹川駅」から徒歩23分
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赤門と呼ばれる、朱塗りの山門で有名な寺。石田三成の居城・佐和山城の大手門を利用したものと伝わる。本尊阿弥陀如来は淀殿の念持仏で、大坂城より持ち出されたといわれる。書院の地蔵尊と千体仏は石田三成の念持仏とされ、紅白の砂利を火と水にみなした「彼岸白道の庭」がある。本堂には彦根藩の徳川家康の位牌を安置する。江戸時代は朝鮮通信使の宿館でもあった。
佐々木京極道誉による開基と伝えられている曹洞宗の禅刹。境内には、江戸時代初期に造られ、国の名勝にも指定されている築山林泉式の枯山水庭園がある。白砂の代わりに杉苔の緑で水の流れを表現しており、優しく柔らかい印象を与えている。なかでも雨上がりが格別に美しい。四季折々の美しさはあるが、とりわけ秋の紅葉時は多くの観光客が訪れる。
憧れの異性との出会いを成就させる、縁結びの神様として女性を中心に信仰を集めている。道祖神をかたどった愛の土鈴は良縁だけでなく、カップルの永遠の愛を呼び込むとか。交通安全の神としても知られている。
西本願寺南にある真宗興正派の本山。文明年間(1469~1487)、佛光寺の14世経豪が本願寺8世の蓮如に帰依し、佛光寺を弟に譲り、名を蓮教と改めて山科に一宇を建てたのが起こり。佛光寺の旧称から興正寺(興隆正法寺)と称した。その後、石山本願寺とともに寺地を移転し、天正19年(1591)に現在地に移った。建立は江戸時代(1600年頃)で、明治35年(1902)に焼失、明治45年(1912)再建。
聖武天皇の勅命により、724年に行基が開基したと伝わる古刹。聖武天皇が夢で龍神より打出と小槌を賜ったとの伝説が残る。この打出と小槌を用いた祈祷は金運のご利益を求める参拝者に人気がある。また、打出と小槌の形をしたお守りを授与している。境内には山崎の戦いの折、秀吉公が宝積寺を本陣とした縁から一夜で建立された三重の塔、腰掛けられていた石が残る。また、閻魔大王像をはじめとした多くの重要文化財の仏像を祀っている。
天台宗の門跡寺院であり、本尊の毘沙門天は京の七福神の一つに数えられる。創建は大宝3年(703)。かつては上京区出雲路にあったが、応仁の乱で廃絶。公海僧正が寛文5年(1665)にこの地に復興し、後西天皇の皇子が入寺して門跡寺院となった。円山応挙作の鯉の絵や、狩野益信作の宸殿の障壁画など見るべきものが多い。また枝垂桜、紅葉も美しい。
山科地蔵は仁寿2年(852)小野篁公が作った六地蔵尊像の中の御一方だ。後に、西行法師、平清盛によって伏見大善寺から都の出入口6カ所に分置された。都の東の門番、東海道を守護する本尊として、旧東海道に面して建つ六角堂に安置している。霊像は、平安時代の作風と伝わり、境内の趣からは当時の様子がよく偲ばれる。時代を超えて変遷する事のない、生活と信仰の姿を感じる事が出来る。徳林庵は、南禅寺第260世住職雲英正怡禅師によって、天文19年(1550)に創建された臨済宗南禅寺派の寺院。山科地蔵尊を御守りしている。
徳川家康の禁教令により追放された、高槻領主のキリシタン大名、高山右近を記念して建てられた教会。追放先のマニラの大聖堂を模して造られている。聖堂の前には祈りを捧げる右近の像がある。
仁和2年(886)に建立されたが、信長の茨木合戦で焼失。慶長8年(1603)に豊臣秀頼が再建した。毎年4月には寺に伝わる山蔭流包丁式があり、全国から料理人が集まる。西国三十三所第22番札所。
南北朝時代に活躍した智・仁・勇の名将、楠木正成公を祀り、楠公[なんこう]さんの愛称で親しまれている神社。境内の表神門右手には、水戸光圀[みつくに]直筆の正成公の墓碑がある。宝物殿には、書画や武具など、正成公ゆかりの品々が展示されている。都会の喧騒の中にあって、広々と緑あふれる境内は都会のオアシス。毎年正月には、全国から100万人近くの参拝客が訪れる。
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