
横浜成田山(野毛山不動尊)
千葉県にある大本山成田山の別院で、寺号を延命院という。願い事が叶うと噂に高い徳川家の秘蔵仏、不動明王を祀っている。高台にある境内からは、野毛の町やMM地区を一望。年間を通じ、厄除・方難・家内安全・商売繁盛などを祈願する人々が訪れる。
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千葉県にある大本山成田山の別院で、寺号を延命院という。願い事が叶うと噂に高い徳川家の秘蔵仏、不動明王を祀っている。高台にある境内からは、野毛の町やMM地区を一望。年間を通じ、厄除・方難・家内安全・商売繁盛などを祈願する人々が訪れる。
明治3年(1870)に、政府と県が中心となり、新興都市である横浜の総鎮守として創建された。かつては県の宗社(公的な祭祀を執り行う神社)として定められ、現在でも、市民の心の拠り所として、初宮詣・七五三・結婚式など人生儀礼の晴れ舞台として、賑わいの絶える事はない。令和2年(2020)の創建150年を記念し、伊勢神宮より社殿が本殿として移築された。
鎌倉時代の建久年間(1190~99)に、源頼朝の家臣が京都・北野天満宮の分霊を受けて創建したといわれる神社。「撫でれば痛みが除かれる」といわれる石の牛像、筆塚、針塚などがある。1月25日は初天神祭で、西瓜天神、年に1度の開運・厄除のお神札を授与。2月8日は針祭(針供養)で、古い針を豆腐に刺して供養する。8月25日は例大祭。1~2月にかけて、合格祈願や学業成就を願う参拝者が多く訪れる。
寛徳元年(1044)に本堂が再興されたことや、境内から天平瓦が発掘されたことから平安時代、またはそれ以前の創建と推定されている。地元で「観音さま」と呼ばれ、本堂に安置されている木造十一面観音は、本堂再興と同じ平安中期の作と考えられており、寺には行基[ぎょうき]の作と伝わっている。本堂正面の「感応」の扁額は空海[くうかい]の書、内部の「観世音」の額は小野道風[おののみちかぜ]の書といわれている。
延久4年(1072)、源頼義、義家父子が誉田別命[ほむだわけのみこと](応神天皇[おうじんてんのう])と富属彦命[とつぎひこのみこと](相模国造二世の孫)を勧請[かんじょう]。本殿は天保11年(1840)、拝殿は昭和9年(1934)に奉献された。山頂には富属彦命の墳堂があり、これを富塚と称し、戸塚の地名が付いたといわれている。
明治元年(1868)創建、「鬼子母神さま」として知られる日蓮宗の寺。この寺の守護神・鬼子母神は、8代将軍徳川吉宗のころ大奥に祭られていた。そのため葵の紋が寺紋となっている。本堂には鬼子母神立像が安置。毎月8のつく日に縁日があり、子供の虫封じや夜泣き止めの祈祷をはじめ、安産祈願・厄除けなどの祈祷も行っている。
東海道沿いにある静かな古刹。徳川家康の侍女、お万の方が小石川伝通院白誉[びゃくよ]上人を請じて開山した。「清源院」はお万の方の法号。お万の方を火葬した寺でもあり、その跡もある。本尊は歯吹阿弥陀如来で、7月18日に開帳される。
日本神社百選に選ばれた横浜北の守り神。鎌倉時代1192年に鎮守。当時の地名、鈴木村の鎮守として会下谷[えがやと]に創建、鶴崎八幡と称していた。寛永8年(1631)、表谷[おもてやと]へ遷座。若宮八幡と称し、後に鈴木村は篠原村となり、若宮八幡は八幡大神と改めた。神話によれば、生まれながらにして歩き御成長に従い、いよいよたくましく身の丈七尺余り衆に優れた偉丈夫となり、一生涯一度の病気もなされず百十歳迄長生をされたとの伝説がある。このような御祭神のため昔から子育て八幡といわれ、村人は子供の無病息災を祈り、戦に臨む者は武運長久を祈って出兵する者が多く、永い間世人の信仰を得た。境内からは新横浜の街並みを一望できる。
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