
長崎公園
諏訪神社の境内へと続く、見晴らしのよい小高い丘の上にある公園。巨大なクスノキなどの木立の中に、写真の開祖・上野彦馬[うえのひこま]や印刷術の開祖・本木昌造[もときしょうぞう]ら長崎ゆかりの偉人像が数多く立っている。公園の登り口には、日本最初の缶詰製造地の標柱もある。
- 「諏訪神社駅」から徒歩7分/「新大工町駅」から徒歩9分
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諏訪神社の境内へと続く、見晴らしのよい小高い丘の上にある公園。巨大なクスノキなどの木立の中に、写真の開祖・上野彦馬[うえのひこま]や印刷術の開祖・本木昌造[もときしょうぞう]ら長崎ゆかりの偉人像が数多く立っている。公園の登り口には、日本最初の缶詰製造地の標柱もある。
幕末に建設された石造壁を持つ初期の洋風住宅で、館内では自由に休むことができ、そのすぐ前の大浦展望公園からは東山手の風景を一望できる。また、南山手レストハウスの正面玄関からは、大浦天主堂越しに長崎港を見渡す事ができる穴場スポット。
明治元年(1868)に建設された三角屋根が目印のこの洋館は、ロシア領事館として使用されていたもの。東山手地区では、当時の領事館で現存する最古の建物であり、その後はアメリカの領事館やアメリカ宣教師の住宅に使用された。幅の広い廊下やゆったりとしたベランダなどに、領事館時代の面影を見ることができる。現在は私学歴史資料館となっていて、居留地時代の私学の歴史を今に伝えている。所要20分。
元禄2年(1689)、江戸幕府が密貿易を防ぐことなどを目的として、唐人を集め、住まわせた屋敷の跡地。唐館ともよばれた建物群には約2000人が住み、周囲は塀や堀で囲われ外界から隔離されていた。現在、土神堂[どじんどう]、天后堂[てんこうどう]、観音堂、福建[ふっけん]会館が市の文化財や史跡に指定されている。
立命館大学の学祖であり公使、文相、首相を歴任した西園寺公望が、明治3年(1870)頃、フランス語の勉強のため長崎滞在中の仮の住まいとしていた地。滞在は7カ月ほどだった。
寛永11年(1634)、唐僧・黙子如定[もくすにょじょう]によって架設。中島川石橋群の中では唯一の双円アーチ型で、水に映った姿が眼鏡のように見えるためこの名が付いている。眼鏡橋のビューポイントは2つ隣の東新橋。アーチが高いので、眼鏡橋を正面から見下ろす角度で見ることができる。橋の向こうに夕日が沈む景色は一見の価値あり。河畔は中島川公園として整備され、枝垂れ柳が風情を感じさせる。川沿いに遊歩道もあるので、ゆっくりと散歩をしてみよう。夜22時までライトアップを実施。長崎の観光名所として人気が高い。
薩摩藩とスコットランド出身の商人トーマスグラバーによって明治元年(1869)に完成。日本最古の蒸気機関を動力として船架(船を乗せる台)ごと曳き揚げる装置を有した洋式スリップドック。当時の船架は現存しないが、ドックの形がそろばんに似ていたため「ソロバンドック」とも呼ばれていた。現在は国の史跡に指定されている。平成27年(2015)明治日本の産業革命遺産に登録された構成資産の1つ。
文久3年(1863)に日本最初の西洋料理の店が開店した地。のちに長崎市馬町へ移転。建物は現在グラバー園へ「旧自由亭」として移設されている。
「亀山社中」とは、慶応元年(1865)、薩摩藩や長崎商人などの援助を受けて土佐の浪人だった坂本龍馬が設立した日本初の貿易商社といわれる結社。メンバーには長岡健吉など幕末の激動期を生きた志士たちが名を連ねている。活動の拠点としていたのは、亀山焼窯元であったという亀山に立つ家。記念館は、その亀山社中跡にある建物を幕末当時の姿により近い形で復元し公開している。館内には、復刻したブーツや紋服、ピストル、『海援隊日史』の複製などが展示されており、龍馬が身を隠したといわれる中二階(隠し部屋)も復元されている。
長崎新地中華街の四方の入口に立つ朱塗りの門が「牌楼[ぱいろう]」、すなわち中華門。長崎新地中華街商店街組合が、中国福州市から資材を取り寄せ、職人を招いて建てたもので昭和61年(1986)に完成。東・北・南門は高さ・幅とも9m。西門は高さ9m、幅4m。東門の青竜門[せいりゅうもん]、西門の白虎門[びゃっこもん]、南門の朱雀門[すざくもん]、北門の玄武門[げんぶもん]は正確に東西南北を示す位置にあり、それぞれ裏側に龍や朱雀など四方の守護神である中国伝説上の動物が彫られている。
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