長崎公園
諏訪神社の境内へと続く、見晴らしのよい小高い丘の上にある公園。巨大なクスノキなどの木立の中に、写真の開祖・上野彦馬[うえのひこま]や印刷術の開祖・本木昌造[もときしょうぞう]ら長崎ゆかりの偉人像が数多く立っている。公園の登り口には、日本最初の缶詰製造地の標柱もある。
- 「諏訪神社駅」から徒歩7分/「新大工町駅」から徒歩9分
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諏訪神社の境内へと続く、見晴らしのよい小高い丘の上にある公園。巨大なクスノキなどの木立の中に、写真の開祖・上野彦馬[うえのひこま]や印刷術の開祖・本木昌造[もときしょうぞう]ら長崎ゆかりの偉人像が数多く立っている。公園の登り口には、日本最初の缶詰製造地の標柱もある。
オランダ坂に面して並ぶ7棟の木造建築の洋館。明治20年代後半に賃貸住宅等として建てられたもので、7棟のうち6棟が見学できる。東山手地区町並み保存センターでは、外国人居留地時代の様子を写真やビデオで紹介。3棟を利用した古写真資料館は、写真の開祖・上野彦馬の資料や明治・大正期の長崎に関する写真を多数展示している。埋蔵資料館では、江戸時代の遺跡の出土品などが見学できる。国際交流の拠点でもある東山手「地球館」cafe slowでは身体にやさしいランチやスイーツなどを提供。
立命館大学の学祖であり公使、文相、首相を歴任した西園寺公望が、明治3年(1870)頃、フランス語の勉強のため長崎滞在中の仮の住まいとしていた地。滞在は7カ月ほどだった。
明治26年(1893)、中国政府の多大な協力を得て華僑らによってつくられた、孔子を祭る聖廟。中国人が海外に建立した唯一の孔子廟としても知られる。廟全体が中国特有の雰囲気を醸し出す華やかな極彩色で飾られており、朱は魔除けと慶びを、黄色は皇帝を表す色として随所に用いられている。門をくぐり敷地内に入ると正面奥に大成殿がそびえ、その前庭には72体の賢人石像が左右にずらりと並んでいて壮観。
文久3年(1863)に日本最初の西洋料理の店が開店した地。のちに長崎市馬町へ移転。建物は現在グラバー園へ「旧自由亭」として移設されている。
明治元年(1868)に建設された三角屋根が目印のこの洋館は、ロシア領事館として使用されていたもの。東山手地区では、当時の領事館で現存する最古の建物であり、その後はアメリカの領事館やアメリカ宣教師の住宅に使用された。幅の広い廊下やゆったりとしたベランダなどに、領事館時代の面影を見ることができる。現在は私学歴史資料館となっていて、居留地時代の私学の歴史を今に伝えている。所要20分。
明治37年(1904)に建てられた洋館(重要文化財)。レンガと石造りの3階建てで市内の洋館の中でも最大級だ。4年の改修工事を終え、平成8年(1996)から一般公開されている。1階は銀行業務に関する資料、2階に明治期の居留地での生活について、3階は諸外国との貿易の歴史に関する展示がある。
長崎の街を見渡せる風頭山山頂にあるこの公園は、坂本龍馬の銅像や司馬遼太郎の記念碑が立つことでよく知られており、毎年それぞれのファンが多く訪れている。また、この公園は長崎では「ハタ」とよばれる凧をあげて「けんか凧」を楽しむ場所としても有名。カラフルで大胆なデザインの凧を、空中でお互いにからませて相手の糸を切る戦いは、勇壮で美しい。
長崎新地中華街の四方の入口に立つ朱塗りの門が「牌楼[ぱいろう]」、すなわち中華門。長崎新地中華街商店街組合が、中国福州市から資材を取り寄せ、職人を招いて建てたもので昭和61年(1986)に完成。東・北・南門は高さ・幅とも9m。西門は高さ9m、幅4m。東門の青竜門[せいりゅうもん]、西門の白虎門[びゃっこもん]、南門の朱雀門[すざくもん]、北門の玄武門[げんぶもん]は正確に東西南北を示す位置にあり、それぞれ裏側に龍や朱雀など四方の守護神である中国伝説上の動物が彫られている。
「亀山社中」とは、慶応元年(1865)、薩摩藩や長崎商人などの援助を受けて土佐の浪人だった坂本龍馬が設立した日本初の貿易商社といわれる結社。メンバーには長岡健吉など幕末の激動期を生きた志士たちが名を連ねている。活動の拠点としていたのは、亀山焼窯元であったという亀山に立つ家。記念館は、その亀山社中跡にある建物を幕末当時の姿により近い形で復元し公開している。館内には、復刻したブーツや紋服、ピストル、『海援隊日史』の複製などが展示されており、龍馬が身を隠したといわれる中二階(隠し部屋)も復元されている。
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