司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑
風頭公園内の龍馬の像の隣にある。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の一節を抜粋した文学碑。長崎に込めた龍馬の期待が伝わってくる。
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風頭公園内の龍馬の像の隣にある。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の一節を抜粋した文学碑。長崎に込めた龍馬の期待が伝わってくる。
諏訪神社の境内へと続く、見晴らしのよい小高い丘の上にある公園。巨大なクスノキなどの木立の中に、写真の開祖・上野彦馬[うえのひこま]や印刷術の開祖・本木昌造[もときしょうぞう]ら長崎ゆかりの偉人像が数多く立っている。公園の登り口には、日本最初の缶詰製造地の標柱もある。
旧長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)は、爆心地から約600mのところにあり、原爆による爆風をまともに受けた高さ1.8mの石造りの門柱が前へ9cmずれ、約10度傾いている。
立命館大学の学祖であり公使、文相、首相を歴任した西園寺公望が、明治3年(1870)頃、フランス語の勉強のため長崎滞在中の仮の住まいとしていた地。滞在は7カ月ほどだった。
豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって捕えられたフランシスコ会の司祭と修道士6人と日本人修道士と信者20人が慶長元年(1597)に処刑された場所。キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者たちがこの地を処刑の場に願い出たといわれている。26聖人の殉教以降も多くの人々がこの地で処刑されたという。太平洋戦争後公園化され、昭和25年(1950)には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めている。長崎県指定史跡でもあり、園内には26聖人が処刑されて100年目の昭和37年(1962)に、彫刻家・舟越保武作の等身大の嵌込[はめこみ]ブロンズ像の記念碑「昇天のいのり」とキリシタンに関する資料が豊富な「日本二十六聖人記念館」が建てられた。
北村西望[せいぼう]作の平和祈念像がある公園。像の高く掲げた手は原爆の脅威を、水平に伸ばした手は平和を象徴、閉じた目は戦没者の冥福を祈っている。園内には平和の泉があり、世界各国から寄贈された平和を象徴するモニュメントがある。原爆投下時、この地にあった浦上刑務所の壁の一部も残っている。
長崎の街を見渡せる風頭山山頂にあるこの公園は、坂本龍馬の銅像や司馬遼太郎の記念碑が立つことでよく知られており、毎年それぞれのファンが多く訪れている。また、この公園は長崎では「ハタ」とよばれる凧をあげて「けんか凧」を楽しむ場所としても有名。カラフルで大胆なデザインの凧を、空中でお互いにからませて相手の糸を切る戦いは、勇壮で美しい。
寛永11年(1634)、唐僧・黙子如定[もくすにょじょう]によって架設。中島川石橋群の中では唯一の双円アーチ型で、水に映った姿が眼鏡のように見えるためこの名が付いている。眼鏡橋のビューポイントは2つ隣の東新橋。アーチが高いので、眼鏡橋を正面から見下ろす角度で見ることができる。橋の向こうに夕日が沈む景色は一見の価値あり。河畔は中島川公園として整備され、枝垂れ柳が風情を感じさせる。川沿いに遊歩道もあるので、ゆっくりと散歩をしてみよう。夜22時までライトアップを実施。長崎の観光名所として人気が高い。
亀山社中跡の長崎市亀山社中記念館近く、亀山通りに石碑が立つ。亀山焼窯は文化4年(1807)に、大神甚五平を中心に開窯した。オランダが注文した水瓶を主に焼いていたが、オランダ船来航の減少により白磁染付を製作するようになり、やがて慶応元年(1865)に閉窯。龍馬は自分の名と同じ龍が描かれた亀山焼の茶碗を愛用したといい、この窯跡地に亀山社中を設立した。現在、窯跡の一部が確認されており、石碑脇には案内板が、そばの伊良林平公民館では外壁に展示棚を設けて亀山焼の作品を展示している。
浦上街道沿いにある山王神社の鳥居。元は一の鳥居から四の鳥居まであったが、原爆の爆心地から南東約900mに位置したため、昭和20年(1945)8月9日の原爆で2つが倒壊。ほぼ原型のまま残っていた一の鳥居は後に交通事故で倒壊し、片方の柱だけになった二の鳥居のみが残っている。原爆の強烈な熱線で上部が黒く焼け、爆風によって片方の柱と鳥居上部が破壊された二の鳥居は、残った笠石の半分を一本柱で70年以上も支え続けている。国指定史跡「長崎原爆遺跡」の一つでもある。
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