子規誕生地跡
慶応3年(1867)、子規は正岡常尚の次男として花園町のこの地で生まれる。通称のぼる。翌年湊町新町に引っ越した。母・八重は、子規の赤ん坊の時のことを、丸い丸い顔で鼻が低い低い妙な顔と話していたという。
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慶応3年(1867)、子規は正岡常尚の次男として花園町のこの地で生まれる。通称のぼる。翌年湊町新町に引っ越した。母・八重は、子規の赤ん坊の時のことを、丸い丸い顔で鼻が低い低い妙な顔と話していたという。
3階大屋根の上にある塔屋。中に太鼓が吊るされており、1日3回打ち鳴らされる(6時、12時、18時)。この音は環境庁(現・環境省)の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。見学は館外からのみ可(内部の見学は不可)。
日本新派俳句最初の結社である「松風会」は当初、松山高等小学校の教員だけで構成されていた。同校跡地に立つ番町小学校校門付近にはゆかりの碑が立ち、子規旅たちの像がある。学校の敷地内にあることから、教育活動に支障のないよう見学をする必要がある。
中世まで伊予の国を支配した河野氏の居城跡。現在は国史跡庭園として整備されている。出土品や遺構を保存する資料館・復元武家屋敷にはボランティアガイドも常駐している。
松山藩士の文武稽古所として建てられた藩校の講堂が保存されている。史料館では子規、秋山兄弟らの書簡や書画、試験の成績表など興味深い品々を収蔵。学校の敷地内にあることから、授業や学校管理の許容範囲内で見学となる。
中ノ川の緑地帯には子規の母・八重と妹・律が明治21~25年(1888~1892)まで暮らした家の跡碑もある。ここは4畳と6畳の二間しかない小さな家で、帰省中の子規を訪ねて大学生の漱石が訪ねた折には、八重が松山鮨[ずし]でもてなした。
小説では、中ノ川は、川幅2mあり、水が飲めるほどに美しく、子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映していたと記されている。現在、中ノ川通りの中央の緑地帯には、子規が2~17歳で上京するまで過ごした住居跡碑があり、そばには子規の歌碑も立つ。
俳句雑誌『ほととぎす』は、明治30年(1897)、子規の友人の柳原極堂によって創刊された。子規のすすめた俳句革新をバックアップし、20号まで発行。のちに高浜虚子が跡を継いだ。
標高132mの勝山に造られた松山城は、山上の本丸に小天守や櫓が連結する連立式天守をもつ平山城。慶長7年(1602)に築城を開始し、約四半世紀をかけて完成したとされる。本丸跡(本丸広場)と二之丸跡(二之丸史跡庭園)、三之丸跡(堀之内地区)から成る城山公園は全体が国指定史跡で、天守をはじめ、乾櫓や野原櫓、隠門など築城当時から残る櫓や門など21棟が国指定重要文化財。安政元年(1854)に再建落成された天守では、歴代城主の甲冑や刀を展示。松山城の歴史が学べ、甲冑の試着体験も好評だ。最上階からは石鎚山から伊予灘までが一望できる。
昭和3年(1928)の昭和天皇正式即位を祝い、近衛師団長を務めたこともある秋山好古が揮毫した「祝御大典奉祝記念」の碑が、道後公園東グランド遊具広場内に立つ。公園内の湯築城跡は国の史跡である。
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