
夏目漱石誕生の地
漱石の生家の跡で、記念碑が建っている。隣の小倉屋酒店は、堀部安兵衛が高田馬場の決闘の前に枡酒を飲んで勢いをつけたと伝えられる店。
- 「早稲田(メトロ)駅」から徒歩2分/「早稲田(都電)駅」から徒歩12分
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漱石の生家の跡で、記念碑が建っている。隣の小倉屋酒店は、堀部安兵衛が高田馬場の決闘の前に枡酒を飲んで勢いをつけたと伝えられる店。
早稲田大学には創立以来の学術研究の成果を物語る膨大な資料が蓄積されてきた。會津八一コレクションや戦前より発掘が行われた考古資料、寄贈された近現代の美術作品、土佐林コレクションのアイヌ民族資料など、いずれも大学独自の貴重な文化遺産。平成10年(1998)の開館以来、多数の校友をはじめ、富岡重憲コレクション、内山コレクション、延原コレクション、服部コレクション、小野コレクション、安藤更生コレクション、大社コレクションなどの寄贈を受け、収蔵品は約5万点。これらを常時展示公開し、学内外の研究、教育に活用される博物館を目指すとともに、大学における知の歴史的文化資産にいつでも接触できる場となるよう努力している。
桜賦は明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山の作であり、桜の花に託して憂国の情をうたったものである。この賦は万延元年(1860)、象山50歳の作と云われている。象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座し、松代に蟄居中であったが、文久2年(1862)孝明天皇の宸賞を賜ったため、蟄居赦免となった。その後、一徹な尊皇攘夷論者によって暗殺され、象山は54歳の生涯を閉じた。この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意により建てられた。国門の北沢正誠の文、書は日下部鳴鶴である。碑の下には挿袋石室が埋蔵されている。
鈴ケ森、大和田と並び、江戸の三大刑場のひとつ。南千住駅の西側、延命寺のあたりに存在した。寺の境内には首切地蔵が残される。隣の南千住回向院には、安政の大獄で処刑された、吉田松陰ら志士たちの墓や杉田玄白らが解剖(腑分け)見学をきっかけに『解体新書』を刊行したことを記念した観臓記念碑がある。
現在、サンシャインシティのある場所には東京拘置所(時期によって巣鴨プリズン、巣鴨刑務所などとも)が置かれていた。戦後、極東国際軍事裁判の被告人とされた戦犯容疑者が収容されており、同裁判の判決後、ここで東條英機らA級戦犯7名を含む戦犯の死刑が執行された。処刑場だった辺りは東池袋中央公園となっている。
荒川線新庚申塚の北側、白山通りに面した旧朝日中学校の敷地はかつて巣鴨撮影所があった場所だ。大正8年(1919)に天活(天然色活動写真)が撮影所を開設して以来、何度か持ち主が変わったが、昭和8年(1933)に大都映画が発足し昭和17年(1942)まで存続。年間100本余りの映画が製作され、戦前の映画界では製作本数最多を誇っていた。
アメリカ人宣教師・マッケーレブが明治40年(1907)に住居として建築した。木造2階建ての建物は、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を持った簡素なもの。これは豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、明治期の宣教師の住居として貴重。東京都指定有形文化財。マッケーレブ師は昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間をこの家で過ごしている。
飛鳥山には日本の近代的経済社会の基礎を築いた渋沢栄一の邸宅があった。残念なことに住居の日本館、西洋館などは戦災で焼失してしまったが、旧渋沢庭園内に書庫として建てられていた「青淵文庫」と賓客をもてなした「晩香廬」の二つの建物が残されている。どちらも国指定の重要文化財だ。
大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)のホームグラウンド。下町の低層住宅街に造られた、当時最新の設備を持った巨大なスタジアムは、ナイター照明の美しさから「光の球場」とも呼ばれた。球場は昭和37年(1967)5月に竣工したが、オーナー企業の経営不振などから昭和47年(1972)に閉鎖、昭和52年(1977)には解体された。現在は野球グラウンドや体育館、プールなどのある総合運動施設で区民のスポーツの殿堂として親しまれている。
松尾芭蕉は2度目の江戸入りの後、神田上水の改修工事にたずさわり、この地に4年間あまり住んでいた。後に芭蕉を慕う人々の手により、そのゆかりの地に龍隠庵と称する庵が建てられた。当時の建物は焼失しており、現在のものは戦後に建てられたものだ。庵内には句碑等が建てられている。
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