吉田松陰歴史館
松陰神社にあり、松陰の生涯を誕生から安政の大獄での刑死まで、20のシーンに分けてロウ人形で紹介している。平成27年(2015)7月に登録された世界遺産(明治日本の産業革命遺産)の関連施設。所要20分。
- 「東萩駅」から徒歩14分
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松陰神社にあり、松陰の生涯を誕生から安政の大獄での刑死まで、20のシーンに分けてロウ人形で紹介している。平成27年(2015)7月に登録された世界遺産(明治日本の産業革命遺産)の関連施設。所要20分。
源泉は地下2000mから毎分200リットルの湯量を誇る自家源泉。約2万年前の地下濾過された水が花崗岩の中で、時間をかけて岩石反応を行い形成されたロマンあふれる温泉は、ナトリウム、塩素、カルシウムの含有量が多く、美肌や神経痛、関節痛などに効果があるといわれている。中央に開放的な庭園があり、それを囲む回廊仕立ての通路に趣向を凝らした風呂が並び、歴史ある湯がゆったりと楽しめる。
萩藩士として大組(300石)に属していた奥平家の表門は、市の指定有形文化財になっている。建築技法などから19世紀初頭のものとされ、全体の門構えや出格子など往時の形態をよく残している。西に面した表門は寄棟造、桟瓦葺きで、桁行約28m、梁間5mの長い建物。道路に面した西側には4カ所の出格子窓があり、腰部は下見板張り、上部は外大壁。外観のみ見学可。
松下村塾の東隣に立つ、松陰の実家・杉家の一室。安政元年(1854)、密航に失敗した松陰は、野山獄に投獄され、翌年ここに移されて謹慎の身となった。
常念寺界隈から熊谷美術館あたりにある寺町。このように寺院が密集する寺町も城下の守りのひとつだ。寺院は戦闘の際、兵舎に代わるものとして考えられ、張りめぐらされた土塀や、堅固な建物は、単に寺の威信だけではなく、いざという場合のことも考慮して造られている。城下町の守りの堅さを偲ばせる。
萩藩の大組士佐世彦七の長男として天保5年(1834)に生まれ、24歳の時に松下村塾へ入門した前原一誠の旧宅。尊皇攘夷運動に参加した前原は後に萩の乱を起こしたが、鎮圧され悲運の最期を遂げた。旧宅は当時のままで、現在も住居として使われているので見学は外観のみ。墓は近くの弘法寺にある。
菊ヶ浜の東にある高さ3m、幅12m、長さ50mほどの土塁。文久3年(1863)5月の攘夷決定の日、長州藩は下関の馬関[ばかん]砲台から外国船を砲撃したが、大反撃を受けて敗退。地元への報復を恐れた藩は、菊ヶ浜に土塁を築いた。現在残るのはその一部。築塁には留守を守っていた多くの女性が参加したため「女台場」とよばれている。
藩主の御座船[ござぶね]を格納した倉(史跡)。玄武岩を積んだ壁に本瓦葺きの屋根をのせた、梁間8.8m、桁行27m、高さ8.8mの堂々たる建物だ。現在は川から約130m離れているが、かつてはこのあたりまで松本川の河畔だったという。
文政9年(1826)、磁器製作に始まった歴史ある窯元で、独自の粘土や釉薬を使い伝統的な萩焼を継承。現在は文化功労者・吉賀大眉[よしかたいび]氏の孫、吉賀暁[あきら]が継ぐ。登り窯や蹴りろくろ工房が見学でき、陶芸体験も受付ている。萩焼のすべてにふれられるのが魅力。
萩城の築城前に毛利輝元が宿舎にした寺。現在ある表門(重要文化財)は輝元が豊臣秀吉から拝領し、寛永10年(1633)に移築したもの。もともとは京都の聚楽第[じゅらくだい]の裏門として建てられた本瓦葺きの屋根をもつ四脚門で、特に蟇股に豪放な桃山時代の特色が見られる。
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