
豊国廟
豊臣秀吉の墓所で、高さ約9mの五輪石塔が立つ。旧豊国神社跡から約500段の石段を登った所、阿弥陀ケ峯の山上にある。
- 「七条駅」から徒歩22分/「東福寺駅」から徒歩24分
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豊臣秀吉の墓所で、高さ約9mの五輪石塔が立つ。旧豊国神社跡から約500段の石段を登った所、阿弥陀ケ峯の山上にある。
三十三間堂の東側にあり、淀殿が文禄3年(1594)に父浅井長政の菩提寺として建立。その後火災に遭い、淀殿の妹で徳川秀忠の夫人である崇源院が元和7年(1621)に伏見城の旧材を使って再建。本堂廊下の上の天井は「血天井」と呼ばれ、伏見城が落城した時、徳川家康の部下だった鳥居元忠らが自刃した際の血痕が付いた床板を使用したものという。俵屋宗達の描いた杉戸絵(重要文化財)・襖絵(重要文化財)や狩野山楽筆の襖絵も見逃せない。
真言宗智山派の総本山。紀州根来寺焼き討ち後、洛東にて再興を図り、徳川家康より、豊臣秀吉が3歳で没した愛児鶴松の菩堤を弔うため建立した祥雲寺を拝領した。その後、度重なる火災に見舞われるも、数々の障壁画や庭園が華麗な桃山文化を今に伝える。名高い長谷川等伯・久蔵一門の描いた楓図・桜図(国宝)は、収蔵庫で見られる。庭園(名勝)は利休好みの庭として知られる、中国廬山をかたどった池泉回遊式庭園。
泉涌寺の別院。南北朝時代の北朝の天皇の位牌を安置する霊明殿と、本堂(重要文化財)がある。庫裏に安置されている真っ黒な色をした鎌倉時代の大黒天像は、左足を一歩踏み出した姿勢がユーモラスで、「走り大黒」と呼ばれている。写経体験(拝観料・抹茶・菓子付き2000円)も開講。写経受付時間は9~15時。
平安時代、嵯峨天皇の勅願により弘法大師空海が開創。本尊の十一面観世音菩薩は大師自ら彫刻されたと伝わる。西国三十三所第十五番札所、厄除開運の寺として知られ、特に頭痛封じ、頭の観音様として広く信仰を集め、近年ではボケ封じの寺でも有名。紅葉、青もみじの時期の境内は見事だ。
東福寺塔頭の一つ。元享年間(1321~24)に、関白一條内経が父の菩提を弔うために創建したが、火災などで衰え、慶安年間(1652~1705)に一條兼輝が再興した。室町後期の画家・雪舟等楊[とうよう]の築造と伝わる鶴亀の庭があることから、別名雪舟寺とも呼ばれる。また、江戸時代に「茶関白」と呼ばれた一條恵観[えかん]が、東福寺参詣の際には茶席図南亭[となんてい]にて茶を楽しまれたと伝えられる。
皇室とゆかりが深く、御寺[みてら]と呼ばれる古刹。境内には狩野探幽作の天井絵などが見られる仏殿(重要文化財)がある。大門近くの観音堂には、唐の玄宗皇帝[げんそうこうてい]が楊貴妃の冥福を祈り造らせたという楊貴妃観音坐像(重要文化財)が祀られ、良縁や安産、美容に御利益があるという。
東福寺の境内に立つ。「じゅうまん不動」と呼ばれ、火除け信仰がある。五大堂に安置されている本尊の平安時代の不動明王像。
鎌倉時代中期に後堀河天皇の勅願所として建立。御本尊は運慶・湛慶親子合作で全長10mの木像の釈迦如来像(重文)。幾度かの移転の後、江戸時代に後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ暗殺されかかったときにこのお釈迦様が身代わりに立たれたことから御寺泉湧寺の塔頭となった。
東福寺の塔頭であり筆の寺として知られる。毎年11月23日には、筆塚前で使い古した筆記具を護摩木にくべて感謝する、筆供養が行われる。
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