七里の渡跡
揖斐川河口、東海道の渡場跡。かつては熱田までの七里(約28km)の間を舟で結んでいた。現在も伊勢国の東の玄関口として「伊勢国一の鳥居」がたっている。
- 「西桑名駅」から徒歩20分/「桑名駅」から徒歩21分
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揖斐川河口、東海道の渡場跡。かつては熱田までの七里(約28km)の間を舟で結んでいた。現在も伊勢国の東の玄関口として「伊勢国一の鳥居」がたっている。
桑名宿は東海道五十三次の42番目の宿場。桑名藩の城下町でもあり、江戸後期には本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒が立ち並ぶ大きな宿場だった。熱田神宮のある熱田宿とは伊勢湾の海路・七里の渡しで結ばれ、桑名の渡船場は伊勢神宮への入口としても賑わった。現在、七里の渡跡には伊勢神宮一の鳥居と常夜灯が立ち、近くには復元された航海の守護神を祭る蟠龍櫓や、旅館として営業している大塚本陣跡、脇本陣跡などが残る。七里の渡跡から桑名城跡(九華公園)の外堀沿いや街中を通る東海道を散策すれば、「歴史を語る公園」や道標、矢田立場などに往時の宿場町の面影が感じられる。
山林王と呼ばれた桑名の実業家、二代諸戸清六の新居として、大正2年(1913)に建てられた邸宅を公開。鹿鳴館を設計したイギリス人、ジョサイア・コンドル設計の洋館と、それに連なる和館は国の重要文化財で、その前に広がる池泉回遊式庭園も国の名勝指定を受けている。
名城の三の丸跡に造られた芝生広場で、入口には本多忠勝の銅像が建てられている。忠勝は徳川四天王の一人に数えられ、慶長6年(1601)桑名城主となり、「慶長の町割り」といわれる町の大改造を行った。
慶長6年(1601)、徳川四天王の一人で、初代桑名藩主となった本多忠勝が、城下町割とともに城郭の拡張整備を行った。桑名城はかつて「扇城」「海道の名城」と称されたが、戊辰戦争の折に幕府方についたため、明治維新後に壊され現存しない。城跡は、昭和3年(1928)に九華公園として整備され、桜やツツジなどが美しく、市民の憩いの場として親しまれている。また園内には松平定綱(鎮国公)と松平定信(楽翁公)を祀る鎮国守国神社があり、付近には復元された蟠龍櫓(航海の守護神である龍の瓦を頂く二層の櫓。歌川広重『東海道五十三次 桑名』にも描かれた)がある。ペットは放し飼いにせず、マナーを守って利用。
「日本一やかましい祭」として有名なユネスコ無形文化遺産、国指定重要無形民俗文化財である石取祭を紹介。総牡丹彫りの絢爛豪華な江戸末期の祭車を展示。建物は国の登録有形文化財。
川口町にある七里の渡に面して建てられた河口のまち桑名を象徴する蟠龍櫓。かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元。かの有名な歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いている。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のこと。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられている。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられている。
江戸時代、松平十一万石の城下町であった桑名市。昭和60年(1985)に開館した三重県下最初の市立博物館。桑名藩関係資料と萬古焼関係の収蔵物が充実。1枚の紙で最高97羽の鶴をつないで折る桑名の連鶴(千羽鶴)を展示するなど、年間を通じ、さまざまな企画展示を開催。1・2階に企画展示室あり(エレベーター設備なし)。桑名の連鶴の体験もできる。受付にてオリジナルグッズの販売もあり。
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